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臨時シベ鉄幹部と鉄道

 6日の当初の目的は7日に朝一で厳島神社を見られるように広島まで辿り着く、というのが目標だったのですが、時刻表を手にした乾先生が臨時シベ鉄幹部と言うか臨時鉄道マニアと化して道中の岡山の神社も回れる計画を立ててくれていました。感謝感謝。

 1時間半も止まっていたムーンライトながらですが、この列車は元々かなり余裕のあるダイヤなのです。なので、結局大垣に着いた時点で30分の遅れにとどまり、さらに乗り換えの際に元々30分待つ予定だったところがあったので、姫路着の時点で完全に予定通りでした。

 昼過ぎに岡山に到着。岡山では電車接近のベルが童謡「桃太郎」であることに驚愕を覚えつつ、モタモタしていたので電車を1本逃し、30分ぼうっとする羽目になりました。常日頃から武蔵野線のことを、「風が吹いても止まる貧弱路線、10分に1本しか電車来ないし」と馬鹿にしていたのですが、どうも全く馬鹿にしてはいけなかったようです。

 ワンマン電車というのも今回初めて乗りました。小さい頃は北海道に住んでいたのですが、そこは北海道でも開けた方だったようですね。

吉備津彦神社

  

 散々待って岡山から芸備線で備前一宮という駅まで移動。 このあたりからあいにくの雨。

 その中少し歩いて吉備津彦神社に到着。吉備津彦神社は境内の敷地は広いし、鳥居や門は立派だけど、どうも敷地内に建物、木は多くなくだだっ広い感じ。境内の裏手は山になっているので、そちらの方には流石に木は多いのですけれども。

 そしてここは境内に人影もなく(まあ、雨だったせいかも知れませんけど)、一宮のわりにはどうも寂しい印象を受けました。

 社務所にも誰も居ないのかな? といった勢いでしたが、流石にそこには人が居ました。なので、御朱印を戴くための御朱印帳をそこで戴きました。 

 あと、左の写真からにも車が写っているので分かるかも知れませんけれど、結構奥の方まで車で来られるので、ちょっと驚きでした。

 私が見てきた神社では大抵一の鳥居のあたりに「下乗(乗り物から降りろ)」とあったもので。

 ↓の参道は車に乗ったまま移動できて、↓の門のところまでは車で来られるわけです。


 右側の写真の左奥に写っているのは手水舎です。お清めを行うところですね。この門の奥の石段を登るとすぐに拝殿(お参りを行うための建物)です。

→が拝殿です。この写真ではちょっと辛いですが、提灯や下がっている布にある紋は菊のご紋です。

 菊のご紋は勿論、どこの神社でも使えるわけではなく、祭神が天皇家関係の場合にのみ使用できます。(例えば、天照大御神など)

 こちらの祭神は、後でも説明しますが、孝霊天皇の第三皇子、大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)。

 完全に天皇家の祭神なので、菊のご紋というわけです。

 

 ←の写真だと境内のだだっ広い感じをわかっていただけると思います。

 左手前に写っているのが拝殿、奥にあるのが本殿(実際に神様を祀っているところ)です。

 本殿は桧皮葺ですかね。上に千木も出ていますし、昔の建築のにおいがします。元禄時代の建立とか。

 ちなみに拝殿などは昭和5年に焼失、同11年に再建されたものだそうです。

 石段を登ったところに柵が写っていますが、その奥は立ち入り禁止でした。

 さらに、この写真の手前側、この写真を撮った時点の私の背後側に子安神社といって縁結びや、安産などに霊験のある神社が摂社として立っていますが、無闇に鳥居とか新しく派手で、神社名の周りにハートマークなどがあったのでガックリ来て、写真は取っていません。

 こちらの祭神、大吉備津彦命には、鬼を退治したという伝説が残っています。

 つまり桃太郎というわけですね。桃太郎の伝説は岡山発祥です。確か瀬戸内海の女木島が鬼が島だったはず。まあ女木島は香川の高松からの方が圧倒的に近いんですけど。ん、香川の高松? 女木島?

 ちょっと待て、女木島は……何かで見たことがある。確かサターンの……センt……おを!

 嫌なゲームを思い出しそうになったので話を変えます。

 吉備津彦神社の祭神は大吉備津彦命だけではなく、天御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神の造化三神のほか、伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大御神、月読大神、素戔嗚大神、さらには大国主命、事代主命、少名彦命、まだまだたくさんの神を祀っているのです。

 これらの神はかなり成立が古そうな、と言うか、格式が高そうな神様なので、ひょっとしたら大吉備津彦命は後から付け足すように祀られたもので、神社の成立はもっと昔なのかもしれません。

 こちらで戴いたチラシにも主祭神は造化三神、と書いてあります。なのに一般的には大吉備津彦命とされているので、あながち間違いでもなさそうです、この考え。

 で、朱印帳はこちら→

 スキャンするとデニム地か何かみたいな質感になってしまいましたが、光沢のある糸で織った布が表紙を包んでいます。上の社紋と文字は暗く写っていますが、金の箔押しです。

 ↓さっそくご朱印を戴きました。まさに達筆。嬉しくなります。

 

 それに、こうやって帳面を埋めていくというのはコレクション魂をくすぐります。旅の楽しみが増えるというものです。

 次に隣の駅、吉備津へと移動。吉備津神社へ。

 

 吉備津神社

 こちらも同じく大吉備彦津命を祀っているとのことですが、雰囲気が全く違います。

 先ほどの吉備津彦神社が山の前の神社というならこちらは山の中の神社という感じで、鬱蒼とした木々に囲まれていたりしますし、こちらの方が立派で雰囲気もあります。ここではもっと写真撮っていたような気がするんですが、全然雰囲気が伝わるような写真は残っておらず無念。何をやっていたのか。

←拝殿にあった「平賊安民」(賊を平らげ民を安んず)の文字。賊というのは退治されたとされる鬼、温羅(うら)のことで、平らげたのは大吉備津彦命のことでしょう。

 しかしこの温羅、実際は鬼ではなく、この地方の豪族だったとか。(いやまあ実際には鬼なんていないわけですけど)

 そして大吉備津彦命は孝霊天皇の第三皇子、つまり(大和)朝廷側の人間ですね。

 つまり桃太郎伝説は朝廷が従わない豪族を征伐した話なのです。

 ↑の写真を撮った拝殿から入ってきた方を振り向くと→のような光景が見えます。写っている手すりを見るとお分かりかもしれませんが、石段はなかなか急です。

 本殿や拝殿の写真はなぜか撮っていませんが、明らかに吉備津彦神社とは違う作りになっていました。

 


←拝殿の右奥から伸びるこんな回廊をずっと行くと、有名な鳴釜の神事を行うお釜殿があります。

 鳴釜の神事とは、かまどに載せた釜が、ブーンと鳴るかどうかで吉凶を占うというものです。1回3000円。

 お釜殿は撮影禁止だったので、写真はありません。

 が、代わりにそばの鳴釜神事の由来を書いた立て札を写真に撮ってきたので、下に写し書きしましょう。

         御釜殿鳴動神事の由来

社伝によれば御祭神に退治せられた鬼「温羅」を祀る処と
伝えられる。縁起によると、或夜、吉備津彦命の御夢に
温羅の霊が現われて、「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をして
ミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ、若し世の中に事あらば釜の前
に参り給はば、幸あらば裕らかに鳴り禍あれば荒らかに鳴らふミ
コトは世を捨てて後は、霊神と現はれ給へ吾が一の使者となり
て四民に賞罰を加へむ」と告げた。これ神秘な鳴釜神事のお
こりである。今日も「鳴釜の神事」が行われており鳴動の音の大小
長短により吉凶禍福を卜するのである。
江戸時代の林道春の「本朝神社考」や上田秋成の雨月物語「吉
備津の釜」などに紹介され、神秘な神事として天下に有名である。

    うずへなる神のひびきに鳴る釜の
         音のさやけき 宮ところかな


御釜殿祈祷一件につき参阡円也


           神 火 授 与


 吾国では古来より火は神秘なのものとして神聖視されて
来ました。当御釜殿の火は消えることなく伝わる
神火でこの火で各家庭の火を清めると禍を祓い福を招くと
伝えられ今日でも特に火を取扱われる人々が火縄にて
お持帰りになって居ります。

 吉備津彦命に退治された鬼、温羅の首が退治されてから十三年もの間うめき声を発し、その後吉備津彦命の枕元に立って自分をかまどの下に埋めたら吉凶を占ってやると言い、その通りにしたら鎮まったという伝承があるのですが、この記述はそのことですね。

 しかし、この話から考えるとここは吉備津彦命を祭神とは言っていますが、その実温羅を祀った神社ではないのかと考えられます。

 とすると、何でこんな近くにに吉備津彦神社と吉備津神社って紛らわしい名前の二つの神社が、揃って吉備津彦命を祀っていると称しているのか分かる気がします。

 吉備津神社が「吉備津彦命を祀っています」とは言い条、実際には温羅を祀っているので、それを苦々しく思った朝廷が後から吉備津彦神社を建立した(もしくは、後から吉備津彦神社に吉備津彦命を祀らせた)のでしょう。

 これなら同じ祭神を祭りすぐ近くにあるのに二つの神社の雰囲気が全く違うのも納得がいきます。吉備津神社の方が吉備津彦神社より古そうな雰囲気ですし、多分全く間違ってはいないと思います。

 ひょっとしたら、桃太郎の伝説も朝廷の支配を確立するために、温羅を完全に悪者にする必要があって、これは鬼である、として、この一帯に流された話なのかもしれませんね。

 さて、ここを見終え東総社駅で降りて備中総社へと。

備中総社

 名前の通りこちらは備中国の神社の祭神をまとめてお祀りしています。具体的にはどうなっているのかと言うと、広い敷地内に末社のように小さく各神社があるわけです。備中国総304社の総本山というわけですね。備中国のミニチュアともいえます。池の中の島には厳島神社があったりするのです。こちらでも御朱印を戴こうと思ったら、社務所に居る人が明らかに町内会のご隠居然とした方々で、神職の方が居なかったのでダメでした。

 この後、隣の芸備線終点総社駅まで移動し、そこから倉敷へ。広島への電車まで時間があったのでそこで非常に遅い昼食をとりました。たしか16時。

広島の威力

 その後山陽本線で広島まで移動。到着したらもう20時ごろ。市民球場も見たいような気もしたのですが、雨も降っていますしこの時間ではなんとも。

 お好み焼き食って先を急ぐべと思ったのですが、そこでなんとも愉快なものを見ました。

 どうも串焼き屋さんのようですが、メニューが全部広島の選手。お酒は球種=球酒ですか、いやはやナイスジョーク。

 このお店に入ってみたい気もしましたが、ここお好み焼き屋さんじゃないですし、真のカープファンではない私が入り込んだらつまみ出されそうで怖いのでここは敬遠しました。

 まあ、でも、その、なんですか。

 乾先生の、広島出身の先輩が「広島ではカープファンとなるように育つ、というか、それ以外に育ちようがない」と言っていたのは本当のことであるのだなあと思った次第で。

 それで、入ったお好み焼き屋さんでは桑田と福本豊のサインが。ううむ。

 この後宿泊先の宮島口ユースまで移動して、何か愉快そうな管理人のおじいさんに圧倒されつつも、早めに寝ました。

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